ヒカリ
時は、21世紀末。
俺の知る限りでは、生活は21世紀初期とそう変わっていない。
車は排気ガスとかっていう有害物質
――主成分はCO2だっけか?社会で習ったけど忘れた――
は出さないけどもちろん飛ばない。
ケータイ電話は、強化プラスティックの進歩で、今や書類タイプ
――本当に折りたためる――
が主流だけど、あいにく実際に会って話すのが今流行り。
けれど、21世紀、一番進歩した分野は、『人間工学』らしい。
いまや人間は、神経の繋がった四肢はもちろん、耳、鼻、舌、
そして瞳も安易に作り出す事が出来る。
21世紀初頭だか20世紀末だかに流行った『クローン技術』は結局、
培養された細胞の胎児期や乳児期での死亡例が相次ぎ、
商業化には至らなかった(と近代社会で習った)。
けれど、今世紀初頭に、
元イラン(現世界第四領域の一部)と元米国(現世界第一領域)だかの戦闘
(侵略?よく覚えていない。)から始まった10年ほどの戦争のせいで、
四肢や感覚器官を失った人間が増えた。
クローン技術が上手く進歩していれば、
そのかけた部分に、自分のクローンの一部を取り付ければいいだけ。
けれど、それは上手くいかなかった。
だから人間は、その代わりに『人間工学』という分野を必死に進めてきた。
そして今。
俺の右眼にも、『人工瞳』が入っている。
これは、最近入れたばっかり。
間違っても、先の戦争のせいで自分の目を失った訳ではない(てか生まれてない)。
バイクで事故って、怪我のしどころが悪かっただけ。
…といっても、いまや『人工瞳』はとてもポピュラーな代物だ。
年配の、それこそ戦争に参加経験のある人なら入れている人は大勢居るし、
俺の友人にも、何人かつけているのが居る。
中には両目『人工瞳』の奴も居るくらいだ。
ちなみに、『義眼』と『人工瞳』の違いは、
前者が神経の繋がらないはめ込むだけのタイプ、
後者が神経を繋げる、要は見えるタイプ。
言うまでもなく、今では後者が主流。
と、話がそれた。
まぁ、つまりは俺も『人工瞳』仲間になったって訳なんだけれど。
見える世界が違う、とかそんなアナログな事を言うつもりはない。
実際、事故る前と全く同じように見える。
色盲になったとか、機械音が煩いとか、痛いとか、そんな事ももちろん無い。
涙だってちゃんと出るし、むしろ逆さまつげになっても痛くないという利点つきだ。
けれど、この世界
――この、今自分が見ている世界――
は所詮、光なのだと、改めて実感した。
今俺たちが物を見得るのは、見ている物質が光を反射させているから。
つまり、俺たちは物ではなく光を見ている。
そんな事は、習ったから知っている。知っていた。
が、それを実感として、身体で思った。
眼球の中に、光が入り込んで、
その光は、手前の方で屈折されて、
奥で電気信号に変換されて、神経へ渡る。
自分の『生の』眼球の中でも、
『人工瞳』の中でも、そのプロセスは音も無く一瞬で行われる。
それなのに、いちいち一つ一つ、光は目の奥に残る。
視覚というよりむしろ触覚に近い感触。
今何かが自分の中に入り込んだという感覚。
頭の中に記憶として残るのとは、また別に。
光が残るような感覚は、『人工瞳』では仕方の無い事らしい。
人間の技術では、光を完全に電気信号に変えることは出来ないらしいから。
しかも、人工神経もまだ完全には『触覚』に反応する部位を
取り払ったものは作れないから。
だから、結果として
映像として認識されなかった光が、僅かにある『触覚』を刺激している。
つまりはそういう理論らしい。
(『人工瞳装着者への手引き』とかいうパンフレットに書いてあった)
けれども、けれど。
光が残る、その感覚。
布とも紙とも人の手とも、空気とさえ違う光の感触。
それが、『人口瞳』をつけている俺という人間の身体の中で、
一番きっと『人間らしい』感覚だと、思う。
なんてナンセンス。
なんて時代錯誤。
けれどけれども。
ひかりが、いつだって暖かいのだと、
そう感じたのは、面白い事に、『人工瞳』になってから。
それまでだって、きっとそれは事実だったんだろうけど、
御生憎様、少なくとも俺は知らなかった。
そして、きっと、この世界この時代に生きている人間、
それこそ『人工瞳』装着者を含めても、
そう思っている人間は、多分きっと俺一人。
ひかりはあたたかい。
いつだって。
04’1 紺野明
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